善悪のジャッジは要らない - 2018.07.27 Fri
苦しみから解放される、唯一の方法。
それは…
「許すこと」です。

制作中につき、2017年5月14日の過去記事を再掲載します☆
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
今日もめっちゃキツイです(・ω・)ノ衝撃に備えよっ。
前回からの続き。↓
1・この世界は幻想である
2・悲劇のヒロイン
3・バイアス(偏見)
4・時代は可視化へと移行している
「つらいことがあっても、私は強いから大丈夫」
「人に弱さを見せたら負け」
これは、威嚇しながら生きて来た人が、自分の身を守るために使う「観念の鎧」です。
虐待されて育った人や、親との関係がギクシャクしてる人などが、よく着用してます。
これも一時なら有効です。
心が壊れないよう自我を保つには、こういう思い込みも時に必要でしょう。
しかし常時このままのスタイルだと、基本「批判的に監視する正論の人」になりがちです。
こうして自分にニセの暗示をかけていくと、いつか本当の気持ちがわからなくなってしまうのです。
鎧を脱がなくては、素直な自分に戻れません。
親との関係の根っこにあるもの。
それは…
もっと 愛してほしかった。
幼い頃の私は、たぶんとても寂しかったんだと思う。
両親にも、兄にも、できればもっと愛されたかった。
大事にしてほしかったし、もっと私の気持ちを尊重してほしかった。
その頃はすごくつらかったからか、自分の本当の気持ちなんて考えたことも無かったけど。。。
今、大人になって振り返ってみると、たぶんそうなんだと思います。
でもこれを認めるのは、自分の中ではけっこう抵抗がありました。
「メンタルの強い自分」
「人に弱い所を見せない自分」
こんな風に強がってた部分があったので、どうしても「みっともない」と思ってしまうのです。
そう。
以前の私のように、どちらかというと人に対して「怒り」の感情を持ち、「攻撃姿勢」で「見下す」タイプの人は、プライドが高いので「本音を吐くこと」を良しとせず、認めることができません。
その分、自分を正当化し、正論で人を批難するのです。
でもこういう人は、ホントは悲しいんです。
ちゃんと「悲しかった」「寂しかった」って、泣いて弱音を吐ければいいんだけど…
だって悲しくて当然なんだし、寂しくて当たり前なんだから。
でも強がりだから、それがなかなか出来ない。
それでも「悲しい」をちゃんと表現してあげないと、その頃の気持ちは浄化されません。
プライドなんて、一ミリも役に立ちません。
一方で、
良い人を演じ、表面上では穏やかで物わかりのいい、良識タイプが自分を見失うと…
「私は弱者なんです、他の人より色々と大変なんです」
「もっと保護されて、面倒をみてもらうべき対象者なんです」
「こんなにも、私はけなげに頑張ってるのに、思うようにいかないんです」
と、逆に必要以上に「悲しい」「つらい」を連発しますが、これも変換ミス。
本当は、ひそかに怒ってるんです。
でも、良い人の仮面をかぶってるから、怒っちゃいけないと思ってる。
「良い人は、ヒステリーみたいな所を見せちゃいけない」
「レベルの高い人は声を荒げたりしない」
「理路整然と、感情的にならないのが良識ある人間」
そんな風にかっこつけて、正直に「ムカつく!」「ふざけんな!」と言えない、お上品を演じてる人。
こういう人が、でっかい声で「お前の〇〇〇なんかピーーーで☆☆☆なのに※※※※だろうが!」とか言えたら、きっとスッキリしてその後は元気が出てくるんじゃないかなぁ。
もちろん、誰かに言うってことじゃなくても、一人で車の中で叫ぶとかね。
私は以前この「大声出してスッキリ解消法」をよくやってました(笑)
あれホントにスッキリするのでオススメ(´艸`*)
ちゃんと「怒り」を外に出してあげなきゃね。
「私には怒りの感情がほとんど無いんです」とか言う人は、ただ気づいてないだけですよ^^
「悲しい」を「怒り」に変換するのも、「怒り」を「悲しい」に変換するのも、自分を守るため。
でも、もう逆だから。
今度からは鎧を脱ぎ、本音を出すことによって、最大限に自分を守ることが出来ます。

綺麗事に聞こえるかもしれませんが、
結局は、「絶対に許せない」と思う人や出来事を、許せるかどうかだと思います。
「口で言うほど簡単にいかない」というのもわかります。
でも、ホントは簡単なんです。
複雑にしてるのは自分なんです。
こんなに苦しい思いをしたのに!
私は何も悪くないのに、あんなヒドイことをされたのに!
なぜ許さなきゃいけないの!?
そう思うかもしれませんが。。。
でも、ホントに苦しいのなら、手放してしまえばいいですよね。
そんなに苦しいなら、もう要らない記憶でしょ。
要らないし、邪魔でしょ。
苦しい思い出なんて、好きこのんで持ってなくてもいいんですよ。
だけど、なぜか「そんなに簡単に忘れられるものじゃない」と言い張る人もいます。
自分で自分を縛っているのです。
恨む気持ちが強いと、どうしてもその「思念」を離すことができません。
これを「執着」と言います。

仏教では「成仏」を説きます。
本来、『成仏』とは「仏に成る」という意味。
しかも「この身のままで仏になる」という、生きている身での成仏(悟りの境地)を説いています。
“この世に未練を残さず スンナリあの世に行くこと” という意味にもなってますが。
なぜ未浄化の思念体が、いつまでも現世に留まってしまうのか。
それは、成仏しきれない「無念な思い」や「執着」があるから。
本当は人は皆、「生きてる間に成仏すること」を目指して生まれてきているのです。
ずっと誰かを、もしくは何かを、許せないままの気持ちでいると…
そのつらく悲しい思いは、「まだ成仏できていない」ということになります。
癒されてない、未浄化のエネルギーをずっと抱えているわけです。
ということは、本当はもう解放した方がいいんですよね。
まずは、自分は未浄化の思いを抱えてる、ということを自覚すること。
そして、癒して浄化して、手放す。
自分を浄霊してるようなものです。
自分の言うことをきくように、いくら正しさを強要しても、人は思い通りにはならない。
私もね、
自分がホントに鬼になるんじゃないかと思うほど、おとうを嫌ってた時期がありました。
私は一生こんな思いをして死んでいくのかと、絶望しかけてた時もありました。
その思いはハンパなかったです。
でも、もう手放しました。
「良いか、悪いか」
「レベルが高いか、低いか」
こんな測りようのないことを基準に、人様をジャッジするのはやめました。
あ、
勘違いする人がいるかもしれないので、一応言っておきましょう。
「許す」なんて言うと、良い人ぶってるように思われるかもですが…
おとうのことなんて、一切考えてませんでしたよ(←オイ)
てか、ぶっちゃけ相手なんてどうだっていいんです( ̄▽ ̄)
自分本位でいいんです、私ゲスいんでw
あくまでも自分のため。
苦しんでたのは、おとうじゃなくて「私」だから。
自分が大事だからです。
きれいごと無しです(笑)
苦しんできた私が、もうこれ以上苦しまなくていいように。
そう思って、囚われてた思念を手放しました。
そうしたら、一気に楽になりました。(*´ω`*)
それはもう、あきらかに視点が変わる瞬間。
監視の目を光らせて、正論をかざして嫌味言って、文句ばっかり垂れてた私。
おとうの悪い所をみつけようとバイアスかけて、すごく嫌な人間になってた。
おとうのせいなのか。
おとうが悪いのか。
違います。
人のせいじゃない。おとうのせいじゃない。
私の中に、原因の「因子」があったんです。
おとうはサインの役割だったんです。
そう気づいたら、私のおとうに対する気持ちも柔らかくなってきて…
そして、現実にも色々変化が出てきて。
いつも出張でいないから、お互い自由に楽しく過ごせていて、ちょうどいいですw
自分の心が、自分の世界を創造してる。
ただ…
時間が必要な人もいるだろうし、心の整理が必要な場合もあるだろうし。。
人によりけりなので、ただ、こんな意見もあるよっていう、一つの参考にでもなればいいかなと^^
あんまり長くなるとアレなんで、次で一区切りにできればいいのだが。
ってことで、次回に続きます~~♪( ´ ▽ ` )ノ
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それは…
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制作中につき、2017年5月14日の過去記事を再掲載します☆
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
今日もめっちゃキツイです(・ω・)ノ衝撃に備えよっ。
前回からの続き。↓
1・この世界は幻想である
2・悲劇のヒロイン
3・バイアス(偏見)
4・時代は可視化へと移行している
「つらいことがあっても、私は強いから大丈夫」
「人に弱さを見せたら負け」
これは、威嚇しながら生きて来た人が、自分の身を守るために使う「観念の鎧」です。
虐待されて育った人や、親との関係がギクシャクしてる人などが、よく着用してます。
これも一時なら有効です。
心が壊れないよう自我を保つには、こういう思い込みも時に必要でしょう。
しかし常時このままのスタイルだと、基本「批判的に監視する正論の人」になりがちです。
こうして自分にニセの暗示をかけていくと、いつか本当の気持ちがわからなくなってしまうのです。
鎧を脱がなくては、素直な自分に戻れません。
親との関係の根っこにあるもの。
それは…
もっと 愛してほしかった。
幼い頃の私は、たぶんとても寂しかったんだと思う。
両親にも、兄にも、できればもっと愛されたかった。
大事にしてほしかったし、もっと私の気持ちを尊重してほしかった。
その頃はすごくつらかったからか、自分の本当の気持ちなんて考えたことも無かったけど。。。
今、大人になって振り返ってみると、たぶんそうなんだと思います。
でもこれを認めるのは、自分の中ではけっこう抵抗がありました。
「メンタルの強い自分」
「人に弱い所を見せない自分」
こんな風に強がってた部分があったので、どうしても「みっともない」と思ってしまうのです。
そう。
以前の私のように、どちらかというと人に対して「怒り」の感情を持ち、「攻撃姿勢」で「見下す」タイプの人は、プライドが高いので「本音を吐くこと」を良しとせず、認めることができません。
その分、自分を正当化し、正論で人を批難するのです。
でもこういう人は、ホントは悲しいんです。
ちゃんと「悲しかった」「寂しかった」って、泣いて弱音を吐ければいいんだけど…
だって悲しくて当然なんだし、寂しくて当たり前なんだから。
でも強がりだから、それがなかなか出来ない。
それでも「悲しい」をちゃんと表現してあげないと、その頃の気持ちは浄化されません。
プライドなんて、一ミリも役に立ちません。
一方で、
良い人を演じ、表面上では穏やかで物わかりのいい、良識タイプが自分を見失うと…
「私は弱者なんです、他の人より色々と大変なんです」
「もっと保護されて、面倒をみてもらうべき対象者なんです」
「こんなにも、私はけなげに頑張ってるのに、思うようにいかないんです」
と、逆に必要以上に「悲しい」「つらい」を連発しますが、これも変換ミス。
本当は、ひそかに怒ってるんです。
でも、良い人の仮面をかぶってるから、怒っちゃいけないと思ってる。
「良い人は、ヒステリーみたいな所を見せちゃいけない」
「レベルの高い人は声を荒げたりしない」
「理路整然と、感情的にならないのが良識ある人間」
そんな風にかっこつけて、正直に「ムカつく!」「ふざけんな!」と言えない、お上品を演じてる人。
こういう人が、でっかい声で「お前の〇〇〇なんかピーーーで☆☆☆なのに※※※※だろうが!」とか言えたら、きっとスッキリしてその後は元気が出てくるんじゃないかなぁ。
もちろん、誰かに言うってことじゃなくても、一人で車の中で叫ぶとかね。
私は以前この「大声出してスッキリ解消法」をよくやってました(笑)
あれホントにスッキリするのでオススメ(´艸`*)
ちゃんと「怒り」を外に出してあげなきゃね。
「私には怒りの感情がほとんど無いんです」とか言う人は、ただ気づいてないだけですよ^^
「悲しい」を「怒り」に変換するのも、「怒り」を「悲しい」に変換するのも、自分を守るため。
でも、もう逆だから。
今度からは鎧を脱ぎ、本音を出すことによって、最大限に自分を守ることが出来ます。

綺麗事に聞こえるかもしれませんが、
結局は、「絶対に許せない」と思う人や出来事を、許せるかどうかだと思います。
「口で言うほど簡単にいかない」というのもわかります。
でも、ホントは簡単なんです。
複雑にしてるのは自分なんです。
こんなに苦しい思いをしたのに!
私は何も悪くないのに、あんなヒドイことをされたのに!
なぜ許さなきゃいけないの!?
そう思うかもしれませんが。。。
でも、ホントに苦しいのなら、手放してしまえばいいですよね。
そんなに苦しいなら、もう要らない記憶でしょ。
要らないし、邪魔でしょ。
苦しい思い出なんて、好きこのんで持ってなくてもいいんですよ。
だけど、なぜか「そんなに簡単に忘れられるものじゃない」と言い張る人もいます。
自分で自分を縛っているのです。
恨む気持ちが強いと、どうしてもその「思念」を離すことができません。
これを「執着」と言います。

仏教では「成仏」を説きます。
本来、『成仏』とは「仏に成る」という意味。
しかも「この身のままで仏になる」という、生きている身での成仏(悟りの境地)を説いています。
“この世に未練を残さず スンナリあの世に行くこと” という意味にもなってますが。
なぜ未浄化の思念体が、いつまでも現世に留まってしまうのか。
それは、成仏しきれない「無念な思い」や「執着」があるから。
本当は人は皆、「生きてる間に成仏すること」を目指して生まれてきているのです。
ずっと誰かを、もしくは何かを、許せないままの気持ちでいると…
そのつらく悲しい思いは、「まだ成仏できていない」ということになります。
癒されてない、未浄化のエネルギーをずっと抱えているわけです。
ということは、本当はもう解放した方がいいんですよね。
まずは、自分は未浄化の思いを抱えてる、ということを自覚すること。
そして、癒して浄化して、手放す。
自分を浄霊してるようなものです。
自分の言うことをきくように、いくら正しさを強要しても、人は思い通りにはならない。
私もね、
自分がホントに鬼になるんじゃないかと思うほど、おとうを嫌ってた時期がありました。
私は一生こんな思いをして死んでいくのかと、絶望しかけてた時もありました。
その思いはハンパなかったです。
でも、もう手放しました。
「良いか、悪いか」
「レベルが高いか、低いか」
こんな測りようのないことを基準に、人様をジャッジするのはやめました。
あ、
勘違いする人がいるかもしれないので、一応言っておきましょう。
「許す」なんて言うと、良い人ぶってるように思われるかもですが…
おとうのことなんて、一切考えてませんでしたよ(←オイ)
てか、ぶっちゃけ相手なんてどうだっていいんです( ̄▽ ̄)
自分本位でいいんです、私ゲスいんでw
あくまでも自分のため。
苦しんでたのは、おとうじゃなくて「私」だから。
自分が大事だからです。
きれいごと無しです(笑)
苦しんできた私が、もうこれ以上苦しまなくていいように。
そう思って、囚われてた思念を手放しました。
そうしたら、一気に楽になりました。(*´ω`*)
それはもう、あきらかに視点が変わる瞬間。
監視の目を光らせて、正論をかざして嫌味言って、文句ばっかり垂れてた私。
おとうの悪い所をみつけようとバイアスかけて、すごく嫌な人間になってた。
おとうのせいなのか。
おとうが悪いのか。
違います。
人のせいじゃない。おとうのせいじゃない。
私の中に、原因の「因子」があったんです。
おとうはサインの役割だったんです。
そう気づいたら、私のおとうに対する気持ちも柔らかくなってきて…
そして、現実にも色々変化が出てきて。
いつも出張でいないから、お互い自由に楽しく過ごせていて、ちょうどいいですw
自分の心が、自分の世界を創造してる。
ただ…
時間が必要な人もいるだろうし、心の整理が必要な場合もあるだろうし。。
人によりけりなので、ただ、こんな意見もあるよっていう、一つの参考にでもなればいいかなと^^
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