(3)ここは地獄の1丁目 - 2014.02.07 Fri
※ 暗い話ばっかり続いてごめんなさい;;本日も相当重い内容です。気分や波動が落ちちゃうって方は無理して読まない方がいいと思います。もう2、3回で終わりますので。<(_ _)>すみませぬ。
(1)すべては「 勘 」で始まった
(2)呪われた娘 からの続きです。
借金だらけの毎日。そんなおとうとの地獄の新婚生活。
凍てつく冬の現場作業。六畳一間のアパート暮らし。
料金が支払えず、ガス、水道、電気、電話が止められるほどの極貧状態。
同じ年頃の女の子がキレイな格好で歩いていくのを見るたびに、薄汚れた作業服を着た今の自分がみじめに思えました。
そうやって人と比べて自分を落とす……哀れな心になっていました。
一体、なぜ私はそんな人を選んだのか。
勘というのはどこから来るのか。
何の光も見いだせないまま、ただ毎日が過ぎていきました。
そして、しばらくして…
気をつけていたはずなのに私は妊娠しました。
そんな暮らしをしていても、子宝に恵まれたことが嬉しかった…。
それまでおとうと暮らしていて、何一つ明るい出来事が無かったのですから。
「なんとかなる」いや、「なんとかする」
そんな生活でもそう思って自分を奮い立たせていました。
そして、はじめての出産。
弥生が生まれました。
それは本当に、感動いっぱいの体験でした。
そこの産院では、出産2日目から母子同室で母乳をあげるようになります。
しかし、同じ日に産んだ他のお母さん達はみんな赤ちゃんと同室になったのに、私だけ一人のままにされました。
…どういうことだろう?
そしてまた「嫌な予感」がします。
産院の先生がきて言いました。
「あなたの子供さんの体に異常が見られます。紹介状を書きますので、これからすぐタクシーを呼んで緊急入院させましょう!」
…なぜこんなに次から次へと試練が訪れるのでしょう。
私の過去世に、いったいどれだけ多くの罪業があるというのでしょう。
でも、また不思議にも何となく「勘」みたいなものはありました。
弥生の病気のことは、私にとっては「試金石」のようなものだと…。
「だからきっと大丈夫なはず…」
* * *
大病院の新生児医療センターの集中治療室。
そこの医師が首をかしげました。
「腸に問題があるのか、胃まで膨張しています。何が原因かわかりません」
5千人に一人という難病の可能性があると言われ、しばらく入院になりました。
毎日、母乳を絞って病院に届けました。
それが一番、新生児にとって免疫力になるからです。
我が子との面会は一日に30分だけ。
まだ目も見えていないであろう赤ん坊なのに、別れ際にひどく泣くのです。
あの時は身が引き裂かれる想いでした。
検査をしても病名は不明。
最悪の場合は人工肛門になることを覚悟するよう言われました。
しかし私は、「絶対に大丈夫…この子はすぐに退院する。私さえ揺るがなければ大丈夫…」と何度も何度も繰り返し自分に言い聞かせ、祈りを捧げました。
そして、思った通り心配する様なこともなく、10日ほどで退院。
結局、最後まで原因はわかりませんでした。
何の病気だったのかは、その時の医学ではわからなかったのです。
きっと私は何かを学ぶ必要があったのでしょう。
事実としてこの時、私の狂おしい程の感情は、生まれて間もない赤ん坊に一心に向けられたのですから。
私はこの時、少しだけ実感できました。
人が人を無条件で愛する感覚を。
命の儚さ、尊さ。
頭で理屈を理解していても、体験してみないとなかなかわからない…。
それが私です。愚かな私なのです。
その後。
子供が生まれたからといって貧乏が変わるわけではなく、それはそれは過酷な日々が続きました。
おむつもろくに買えない。ミルクも満足に買えない。
私が働けない分、困窮は極まります。
あまりに大変で良く覚えていないのです。
あの頃は必死すぎて、何を食べていたのかどうやって生きてきたのか…。
記憶が薄いのです。
覚えているのは、歯がボロボロになったこと。
栄養失調気味で体重もかなり減っていました。
近所の方からおせんべいを頂き、涙が出るほどありがたく、思い切り食べようとしたら…。
なんと、せんべいに歯が負けてしまったのです。
奥歯が半分かけてポロンと落ちた。その歯をさわったら…。
ぐにゃぐにゃ。やわらかい。
歯は堅いものだと思ってましたが、栄養不良や偏食などあまり悪化状態が続くと歯はもろくなり、豆腐のように手で触るだけで崩れてしまう場合があるそうです。
そう、まさに豆腐のようでした。
驚いて他の歯もさわってみたら柔らかいのです。
その後2、3ヶ月で、計8本欠けたり一部抜けたりしました。
本当に栄養って大事です。
その後。
まったく仕事がうまくいかないおとうを説得し、他へ就職してもらいました。
安月給でも安定していれば借金を返済しながら子供を育てていける。
やりくりは至難の技でしたが、何とか生きていけました。
そして、用心に用心を重ねていたのに、また妊娠…。
正直、真っ青になりました。
しかし不思議なもので、母親になると強くなります。
自分の中から生まれ出でた命。
何者にも代えがたいこの宝を守らなければという想い。
確かに生活は苦しくて死にもの狂いでした。
でも少しづつ手ごたえを感じてた頃で。
弥生は癇の虫が強く、夜泣きばかりする子でしたが、手がかかった分だけ可愛かったです。
そして…
次の子がお腹の中でドンドン大きくなっていく時のこと。
またしても波乱。
いつも嵐は前触れもなくやってきます…。
ある日の夜中、電話が鳴り響きました。
「…もうだめだ。死ぬ。…探さないでくれ…」
電話の主はおとうの母。私にとって義母、姑です。
姑はその頃の私にとって“負の象徴”そのものでした。
子を持つ母となってからはなおの事、姑を許せないという感情が沸き立つのです。
リアル三次元びっちりで生きていた当時の私は、そんな自分の不安定な感情に振り回されるばかり。
電話に出たおとうは動揺しています。
「何があった?どうしたの、今どこ!?」
姑「もう死ぬから…今は港にいるけど、来なくていい…」
お「何言ってんだよ!待ってろって、すぐ行くから!」
姑「…ここから海に飛び込んで死ぬわ、もう」
お「いいからそんなこと言わず俺がすぐ行くから待ってろって!」
姑「…わかった…」
実はこのような電話は、今までに何度もありました。
姑は、現状の不満や精神的苦痛を自分の子供に吐き散らす人。
今だったら冷静に「エネルギーヴァンパイア」だとわかります。
しかし、その時の私はそんなことわかるはずもなく、ただただ姑を軽蔑していました。
姑に優しい目を向けることなんて考えもせず。
仕事でどんなに疲れていても、姑から連絡があれば夜中だろうとなんだろうと飛んでいくおとう。
まさかとは思っていても、あんな電話があれば迎えにいかざるを得ない息子の心情。
そうやって何度も。今までに何度も。
お義母さんは卑怯者。理解できないし、したくもない。こんなの絶対許せない!
私はなぜそこまで過剰に反応するのか。
それはおとうに聞いた、彼の生い立ちにあります。
おとうは虐待されて育っていたのです…。
<次回へ続く>
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借金だらけの毎日。そんなおとうとの地獄の新婚生活。
凍てつく冬の現場作業。六畳一間のアパート暮らし。
料金が支払えず、ガス、水道、電気、電話が止められるほどの極貧状態。
同じ年頃の女の子がキレイな格好で歩いていくのを見るたびに、薄汚れた作業服を着た今の自分がみじめに思えました。
そうやって人と比べて自分を落とす……哀れな心になっていました。
一体、なぜ私はそんな人を選んだのか。
勘というのはどこから来るのか。
何の光も見いだせないまま、ただ毎日が過ぎていきました。
そして、しばらくして…
気をつけていたはずなのに私は妊娠しました。
そんな暮らしをしていても、子宝に恵まれたことが嬉しかった…。
それまでおとうと暮らしていて、何一つ明るい出来事が無かったのですから。
「なんとかなる」いや、「なんとかする」
そんな生活でもそう思って自分を奮い立たせていました。
そして、はじめての出産。
弥生が生まれました。
それは本当に、感動いっぱいの体験でした。
そこの産院では、出産2日目から母子同室で母乳をあげるようになります。
しかし、同じ日に産んだ他のお母さん達はみんな赤ちゃんと同室になったのに、私だけ一人のままにされました。
…どういうことだろう?
そしてまた「嫌な予感」がします。
産院の先生がきて言いました。
「あなたの子供さんの体に異常が見られます。紹介状を書きますので、これからすぐタクシーを呼んで緊急入院させましょう!」
…なぜこんなに次から次へと試練が訪れるのでしょう。
私の過去世に、いったいどれだけ多くの罪業があるというのでしょう。
でも、また不思議にも何となく「勘」みたいなものはありました。
弥生の病気のことは、私にとっては「試金石」のようなものだと…。
「だからきっと大丈夫なはず…」
* * *
大病院の新生児医療センターの集中治療室。
そこの医師が首をかしげました。
「腸に問題があるのか、胃まで膨張しています。何が原因かわかりません」
5千人に一人という難病の可能性があると言われ、しばらく入院になりました。
毎日、母乳を絞って病院に届けました。
それが一番、新生児にとって免疫力になるからです。
我が子との面会は一日に30分だけ。
まだ目も見えていないであろう赤ん坊なのに、別れ際にひどく泣くのです。
あの時は身が引き裂かれる想いでした。
検査をしても病名は不明。
最悪の場合は人工肛門になることを覚悟するよう言われました。
しかし私は、「絶対に大丈夫…この子はすぐに退院する。私さえ揺るがなければ大丈夫…」と何度も何度も繰り返し自分に言い聞かせ、祈りを捧げました。
そして、思った通り心配する様なこともなく、10日ほどで退院。
結局、最後まで原因はわかりませんでした。
何の病気だったのかは、その時の医学ではわからなかったのです。
きっと私は何かを学ぶ必要があったのでしょう。
事実としてこの時、私の狂おしい程の感情は、生まれて間もない赤ん坊に一心に向けられたのですから。
私はこの時、少しだけ実感できました。
人が人を無条件で愛する感覚を。
命の儚さ、尊さ。
頭で理屈を理解していても、体験してみないとなかなかわからない…。
それが私です。愚かな私なのです。
その後。
子供が生まれたからといって貧乏が変わるわけではなく、それはそれは過酷な日々が続きました。
おむつもろくに買えない。ミルクも満足に買えない。
私が働けない分、困窮は極まります。
あまりに大変で良く覚えていないのです。
あの頃は必死すぎて、何を食べていたのかどうやって生きてきたのか…。
記憶が薄いのです。
覚えているのは、歯がボロボロになったこと。
栄養失調気味で体重もかなり減っていました。
近所の方からおせんべいを頂き、涙が出るほどありがたく、思い切り食べようとしたら…。
なんと、せんべいに歯が負けてしまったのです。
奥歯が半分かけてポロンと落ちた。その歯をさわったら…。
ぐにゃぐにゃ。やわらかい。
歯は堅いものだと思ってましたが、栄養不良や偏食などあまり悪化状態が続くと歯はもろくなり、豆腐のように手で触るだけで崩れてしまう場合があるそうです。
そう、まさに豆腐のようでした。
驚いて他の歯もさわってみたら柔らかいのです。
その後2、3ヶ月で、計8本欠けたり一部抜けたりしました。
本当に栄養って大事です。
その後。
まったく仕事がうまくいかないおとうを説得し、他へ就職してもらいました。
安月給でも安定していれば借金を返済しながら子供を育てていける。
やりくりは至難の技でしたが、何とか生きていけました。
そして、用心に用心を重ねていたのに、また妊娠…。
正直、真っ青になりました。
しかし不思議なもので、母親になると強くなります。
自分の中から生まれ出でた命。
何者にも代えがたいこの宝を守らなければという想い。
確かに生活は苦しくて死にもの狂いでした。
でも少しづつ手ごたえを感じてた頃で。
弥生は癇の虫が強く、夜泣きばかりする子でしたが、手がかかった分だけ可愛かったです。
そして…
次の子がお腹の中でドンドン大きくなっていく時のこと。
またしても波乱。
いつも嵐は前触れもなくやってきます…。
ある日の夜中、電話が鳴り響きました。
「…もうだめだ。死ぬ。…探さないでくれ…」
電話の主はおとうの母。私にとって義母、姑です。
姑はその頃の私にとって“負の象徴”そのものでした。
子を持つ母となってからはなおの事、姑を許せないという感情が沸き立つのです。
リアル三次元びっちりで生きていた当時の私は、そんな自分の不安定な感情に振り回されるばかり。
電話に出たおとうは動揺しています。
「何があった?どうしたの、今どこ!?」
姑「もう死ぬから…今は港にいるけど、来なくていい…」
お「何言ってんだよ!待ってろって、すぐ行くから!」
姑「…ここから海に飛び込んで死ぬわ、もう」
お「いいからそんなこと言わず俺がすぐ行くから待ってろって!」
姑「…わかった…」
実はこのような電話は、今までに何度もありました。
姑は、現状の不満や精神的苦痛を自分の子供に吐き散らす人。
今だったら冷静に「エネルギーヴァンパイア」だとわかります。
しかし、その時の私はそんなことわかるはずもなく、ただただ姑を軽蔑していました。
姑に優しい目を向けることなんて考えもせず。
仕事でどんなに疲れていても、姑から連絡があれば夜中だろうとなんだろうと飛んでいくおとう。
まさかとは思っていても、あんな電話があれば迎えにいかざるを得ない息子の心情。
そうやって何度も。今までに何度も。
お義母さんは卑怯者。理解できないし、したくもない。こんなの絶対許せない!
私はなぜそこまで過剰に反応するのか。
それはおとうに聞いた、彼の生い立ちにあります。
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